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宮本商産株式会社百年史

創業者 宮本富次郎

​明治17年(1884年)5月25日、父・芳吉、母・ちかの長男として、和歌山県伊都郡笠田村字萩原(現在のかつらぎ町)に生まれる。

明治31年(1898年)、笠田村の豪商「富善」の7代目であった父・芳吉が北海道での事業を決意、石狩国の銭函で水車を使った製粉・製麺業を立ち上げる。

しかし、3年後の明治34年(1901年)、事業に行き詰まり、息子の富次郎を呼び寄せ、事業の継続を託して父・芳吉は帰郷する。

宮本富次郎は弱冠17歳にして事業を背負うことになる。

しかしながら、事業が好転することはなく、明治36年(1903年)に休止する。

父から譲り受けた事業には失敗したが、

「この北の大地で、己の力で新たな商いを試してみたい」

と北海道に残ることになる。

十勝に入る

新たな商いの地を探していたおり、狩勝峠から見た十勝の広大な未開の原野に

「これぞ、私が夢に描いていた商いの地だ。我が第二の故郷に値する場所ぞ。」

と、十勝で事業を行うことを決意する。

創業

明治36年(1903年)6月15日、「山ト・宮本富次郎商店」として帯広市の大通4丁目に貸家を借り受け、製麺業を本業に、食料品の小売業を開始する。

この年、松浦慶之助の長女・スマエと結婚する。

明治37年(1904年)秋、現在の本社ビルのある西2条5丁目に店舗を新築し、雑貨小売業と雑穀仲介業を開始。

​当時、西2条周辺は街外れであったが、鉄道の開通により、駅舎に直結する道路が将来のメインストリートになると考え、経済の一変を先見し、その場所を選んだ。

このころには(創業から1年足らずで)、十勝の他の有力商店と肩を並べるほどになる。

シェル石油と特約

大正2年(1913年)、英国系シェル石油と特約し、石油製品の販売を開始。

当時はまだ自動車も走っておらず、石油の需要はほとんどなかった。

それから時代が下ること昭和28年(1953年)、帯広に最初のガソリンスタンド「宮本帯広西2条営業所」が開設される。

その後、足寄や大樹にも相次いで営業所が開設され、本体経営の中枢をなすことになる。

 

百万長者

大正6年(1917年)6月、西2条5丁目に本格的な機械動力による精米工場を設け、米穀・酒類・食料品の卸売りを始める。

雑穀相場の高騰により、事業は右肩上がりの成長となり、「百万長者」と呼ばれるまでになる。

国登録有形文化財 旧本社

大正8年(1919年)、今も現存するレンガ造りの旧本社が建築される。

 

昭和27年(1952年)3月4日発生の十勝沖を震源とするマグニチュード8.1の大地震(帯広震度6)でもビクともしなかったこの本社は、現在、国の登録有形文化財に指定されている。(平成29年(2017年)登録)

宮本醸造合資会社

大正12年(1923年)5月、宮本醸造合資会社を創設。

地元の産業振興と帯広の発展のため、十勝の特産品である大豆を原料とした醤油と味噌の生産、販売を始める。

 

その後、札幌、小樽、函館、旭川などの全道に合わせて23の直売所を設け、昭和10年(1935年)には北海道の品評会で優秀賞を受賞し、全道五大醸造工場の一つとなる。

しかし、本州の大手醸造メーカーが北海道に進出してきたことから、昭和45年(1968年)に製造を終了する。

商工会会頭に選出

大正15年(1926年)、帯広商工会の会頭となり、その後、通算12年間にわたり責務を負う。

さらに、昭和7年(1932年)には北海道商工会会頭に選出される。

法人化

昭和10年(1935年)、帯広でいち早く法人化し、「株式会社宮本富次郎商店」となる。

二代目 宮本義雄

創業者、宮本富次郎には妻のスマエとの間に4男1女の子供がおり、後に二代目となる次男・義雄は大正2年(1913年)に産まれる。

次男・義雄は病弱だったため、中学校から温暖な東京で暮らすことになる。

次第に健康を取り戻したが、長男・富男が23歳の若さで死去し、家業を継ぐため、法政大本科に入り、経済学を学ぶことになる。

さらに大学院に2年間通い、昭和15年(1940年)に卒業。

 

その後は商いの勉強もかねて東京に残り、港区青山に「株式会社宮本富次郎商店東京支店」を設置する。

昭和33年(1958年)、東京支店をたたんで帰郷し、宮本醸造合資会社に就く。

 

宮本商産株式会社

創業から60年となる昭和39年(1964年)、現在の「宮本商産株式会社」に社名を変更する。

取り扱う物が石油から酒類、食品、機械類と“総合商事企業”としての体制が整い、さらに、「時代に即した社名にすべき」との声が上がったためである。

帯広経済界の巨星堕つ

昭和40年(1965年)2月に妻のスマエが旅立ち、後を追うように、その2か月後の4月21日、創業者・富次郎も旅立つ。享年82歳。

「帯広経済界の巨星堕つ」の訃報が市内を駆け巡り、葬儀には1500人の参列者が集まった。

現本社落成

昭和40年(1965年)10月、赤レンガの本社横に現在の本社となる鉄筋コンクリート造りの新社屋が落成する。

石油ショック

昭和48年(1973年)の第1次石油ショック、および昭和53、54年(1978、1979年)の第2次石油ショックで最大の危機に直面する。

「値上がりする前にオイルを購入すべき」という話が聞こえていたが、社長の義雄は、「そうではない」という現場の社員の判断を信じ、無駄な在庫を抱えることなく乗り越えることができた。

 

親子2代の会頭就任

昭和51年(1976年)、二代目の義雄が帯広商工会の会頭となる。

親子二代にわたる会頭職就任は例がなく、翌52年(1977年)には北海道商工会議所連合会の副会頭に選任されている。

創業100周年

平成15年(2003年)、創業100周年を迎える。

 

子供のいない義雄は

「わたしの子供は会社です。社員は孫です。」

と以前から語っており、

「良き社員、良き後継者に恵まれて幸せな人生を送ってこられたことに感謝の念でいっぱいです。次の世代にも“先見性と決断力が重要である”という先代の教えを引き継いでもらいたい。」

と述べている。

その義雄も平成27年(2015年)3月、享年102歳で旅立った。

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